2022/12/14

最近の話とPHIL COLLINS - Both Sides (1993)

さっきMOTHERLANDのレビューを追加したけど、そういうことで久しぶりの投稿。なにか悲しいことがあったわけでも何でもなく、ライブの準備が重なった時期の余暇を100%消費活動に振っていたためすっかり習慣が絶たれてしまっていただけで、元気な消費者として過ごしています。

アナログ盤購入に関して、再生装置を導入したての昨年はじめには「基本的には無欲に、たまたま出会えたものだけ買っていこうと決め」て、「敢えて大きなLPで持つなら(中略)オリジナル演奏の波動をキャプチャしたものの写しの写しの...(略)...の写しであるはずのオールアナログ制作音源のほうがよりいいだろう」と書いていた。結果的にここ数年で一番の大ウソになってしまった。

ここのところは個人売買でCDをばんばん手放しては90年前後の思い入れ深いリリース(もっと言うなら洋楽聴き始めの極初期に繰り返し聴いたような作品)のアナログを希少盤価格で迎え入れ、「90年代作品のアナログは最高」と悦に入り、高校時代の友人にお宝自慢をするつもりがしばらく会ってないうちにこちらの3倍買い込んだお宝の壁に逆に圧倒され、このままこつこつとマイ・コンプリート・コレクションを築くのは諦めて珍しい品は友人宅でたまに聴かせてもらうことにしようと割り切るなどしている。

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90年代作品でも、デジタルレコーディングとはいえ制作現場とCDに収録されているデータとでは諸々のレートが大違いなので、アナログで聴く意味は無くないどころかありすぎるしむしろ最高。
前時代よりきつめのコンプにもめげずありのままに音が立ちあがり、CDに対するアナログの「アクリルのフタ一枚が無い感じ」「水道水に対する浄水」という体感に、さんざん聴き込んだつもりの作品であればあるほど「やっと本当の姿に会えました...」と感動してしまう。特にメタルでは、CDよりもちょっとだけ、ハイミッドのミンミンいう帯域(ちょうどギターの高音成分付近)をうるさくしない代わりに超高域が自然に抜けるマスタリングになっていることが多くて、生のバンドアンサンブルをよりリアルに想像できてとてもよい。

サブスクの台頭で音源所有の観念が揺らぐかなと思ったけど、それはあくまで思い入れ抜きの面白み・興味のみで聴いている部類の作品に関してだけで、好きの感情が強い作品は持たない理由がない。フィジカル音源の購入、中でもリリース当時のLPを買い求めることは「ほかの手段をもって代えがたいリスニング体験へのアクセス権の恒久的予約」であると結論づけてからは何も迷わなくなった(40過ぎて不惑らしいのはここだけ)。


ということで新規発掘活動をすっかり怠り、めくった裏側まで既に知り尽くしてるような作品ばっかり買い集めていて、旧ブログを読んでくださっていた方には相当なんだかなという進歩なきリスナー生活を送る中にも、昔は気にしなかった部分を改めておもしろく思う作品が出てきたりする。今回はそこから1枚ピックアップ。

これわざわざ買うかなあと数週間寝かせた末、ヤフオクで競った最終価格の半分近くで中古の出品があったため一応入手したフィル・コリンズの93年作「BOTH SIDES」。リリース当時に日本盤新品で買っていて、GENESISの「WE CAN'T DANCE」のその後を見せてくれたようなリード曲"Both Sides Of The Story"には大いに胸躍ったものの、あとの大半の曲があまりにアダルトすぎて、一度売ってしまったこともあった。
そういう盤こそ歳とってから再発掘のしがいがあるもの。

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まずこのアルバム、近接感あるスリムなサウンドプロダクションが素晴らしいのだけど、一部のオーヴァーダブ要素を除いて全て12トラックのホームレコーディングで収録されたとの事。加えてドラムマシン以外はすべて氏一人による人力演奏だとブックレットに書いてある。確かに、最小限のレイヤー数で空間をうまく薄塗りしている。こういうのは今になってその成し遂げ難さに感銘を受ける。

氏は80年代の作品でも度々、ゆったりした打ち込みリズムとぼかしの効いたシンセだけでほぼ成り立つようなアンサンブルに取り組んでいて、ロマンティックなだけではなくダークで内省的な方向にも振れることがあった。
世間的に90年代初頭の最もダーク・内省礼賛な時期にリリースされたこの作品では、そういう面が一気にブーストされて、眠気の彼方のような淡ーい曲や、光を探すこともなく地を這うような曲が、アルバムの振れ幅のベースラインをぐっと深い位置にしている。
この頃のこういうポジションのシンガーあるあるではあるけど、内省AORの未来型をいちはやく提示していたTHE BLUE NILEに触発されたのではと感じる場面がたまにあって興味深い。7曲目"Survivors"序盤のタメっぽいヴォーカリゼーションや、ラストの"Please Come Out Tonight"などはやたらそんな趣きがあるし、ほかの沈む系の曲もフィル・コリンズ流BLUE NILEとして聴いてみるとまた違った愉しみ方ができそう。
昔はたぶん何とも思っていなかった、漫然とした妙味だけがゆったり続く9曲目"There's A Place For Us"が素晴らしくて、この曲を再生するためだけでもLPで入手する価値があった。

いっぽうで生ドラムが躍る前向きで軽快な曲も、先述のリード曲以外にいくつか挟まれており(ただしかつてのようにブラスセクションを配してチャキチャキと気取ることはしない)、アルバム総体としてダルすぎることはないし、氏の実演家としての優れた腕前もちゃんと堪能できてよい。
ベテランの域に達したタイミングでこれを一人で作り上げたバイタリティには心底感服する。

ところで、GENESISとして91年にリリースした「WE CAN'T DANCE」収録のヒット曲"No Son Of Mine"では、家庭内暴力を振るう父親に怯える子供が描かれていた。このアルバム収録の"Both Sides Of The Story"では、双方が互いの不満の根拠を主張しあう不仲な両親とその子供達が登場する。"No Son Of Mine"が実話で、父親のことを悪く描写し過ぎたから、"Both Sides~"で「彼にも相手がいて言い分がある」みたいにバランスを取ったのかな、と勝手に思っていたけど、さっき調べたらどちらもフィクションとのこと。しかし他にも"We're Sons Of Our Fathers"という曲で親子関係について再度取り上げていて、そうしたトピックがこの頃の氏の関心事ではあったと思われる。

もひとつ、ほぼ同時期(92年)にEXTREMEも「III SIDES TO EVERY STORY」で「すべてのストーリーには自分の主観、あなたの主観、客観的な真実の3つの面がある」と言っていて、(おもにsidesとstoryが)なんか似てるなというのも長年気になっている点。
不景気や戦争等々による社会の転換で80年代の虚飾が剥がれ、家庭や個人にクローズアップする内省的な歌詞が激増し、己を対象化し掘り下げる中で、当然相対的に看過できない他者の存在感や視点にも目が向きがちな時代だったりしたのだろうか。
物事の裏表・多面性つながりでいくと、当時は多重人格もののドラマが日本でもちょっと流行った気がするし、もう少し辿ると、平穏と思われた田舎町に起こったひとつの殺人事件から芋づる式に住民たちの隠されたドロドロが暴かれていく「ツイン・ピークス」の放映開始が1990年。ツインピークス的が孕んでいたいろんな要素は90年代前半の音楽・映像シーンでかなり参照されていたように思えるけど、実際にスイッチを入れた部分と単にタイムリーだった部分について、社会情勢もひっくるめて論じている本でもあったら興味があるので教えてください。

何の話かわからなくなってきたところで今回はここまで。ハウイズアニー!